永年の時を重ね、誇り高き
歴史と伝統を継ぐ地、「長岡天神」。

その名が語るようにかつて都を有したこの地は
「長岡天満宮」をはじめ、明智光秀、細川ガラシャとも
縁の深い由緒正しき歴史と風情を宿す地。
その揺るぎなき誇りと格を次代へと受け継ぐ。

長岡京時代

桓武天皇の命により奈良・平城京より乙訓・長岡京へ遷都。

延暦3年(784年)、桓武天皇の命により平城京から水陸の便の良い乙訓郡長岡村に都が遷され、長岡京と名付けられました。政変や疫病などにより、わずか10年余りで再び平安京へと遷都されましたが、平安京に匹敵する広さを誇り、諸制度の改革や国家の建て直しなど、平安時代の基礎をつくった貴重な都であったと伝えられています。
※掲載イラストは「平城京鳥瞰図」。

平安時代

太宰府に流される菅原道真公を偲んで建てられた「長岡天満宮」。

菅原道真ゆかりの「長岡天満宮」は、創立年月は不明ながら、道真が太宰府へ左遷される際、供の者に託した自作の木像と念持仏を死後祀ったのがはじまりとされています。この地は道真の所領だったとも言われており、生前は在原業平たちと共にしばしば詩歌管弦を楽しんだ縁の深い場所とも言われています。
※掲載写真は「長岡天満宮」。

戦国時代

細川ガラシャが新婚時代を過ごし、明智光秀も最後に過ごした勝龍寺城。

織田信長が全国統一を目指していた元亀2年(1571年)、城主細川藤孝の子、忠興に嫁いだ明智光秀の娘、玉(後の細川ガラシャ)が幸せな新婚時代を過ごしたのがこの勝龍寺城です。本能寺の変後、明智光秀が豊臣秀吉と激突した山崎合戦の後、一時逃げ込み最後の夜を過ごした地と言われています。
※掲載写真は、「勝龍寺城」。

江戸時代

八条宮智仁親王により、長岡天満宮に「八条ヶ池」が開かれる。

寛永15年(1638年)、長岡天満宮周辺を領地としていた八条宮智仁親王によって、境内東側にため池が開かれました。これが現在の八条ヶ池です。後に桂離宮を造園する親王は、この八条ヶ池にもこだわりを散りばめました。江戸時代の観光ガイドブック「都名所図絵」にも関西有数の絶景と紹介され、多くの人々が訪れました。
※掲載写真は「八条ヶ池」。

昭和

阪急「長岡天神」駅が開業。続いて国鉄「神足」駅が開設。

近代、鉄道の開通が相次ぐと急速な工業発展による都心環境悪化から郊外の住宅地開発が活発に。昭和3年(1928年)、新京阪鉄道(現在の阪急京都線)「長岡天神」駅が開業すると周辺は閑静な住宅地として人気となりました。一方昭和6年(1931年)に開業した国鉄「神足」駅(現在の「長岡京」駅)は、当時この地にあった最先端の工場から製品や原材料を運ぶためのもので、長岡京市が先進産業都市となる契機と言えます。
※掲載写真は「阪急電車」。

現代

歴史の風情と落ち着きを湛えながら、進化を続ける「長岡天神界隈」。

永き歴史を重ねた街ならではの穏やかな佇まいと格を今に受け継ぎながら、現代の利便にも恵まれた「長岡天神」駅周辺は、商業施設はもちろん、新庁舎への建て替えが進む市役所をはじめ、図書館や記念文化会館など公共施設も充実。名実ともに市の中枢として更なる進化を続けています。
※掲載写真は「長岡天神の街並み」。

※掲載の写真は、長岡京市役所からご提供いただいたものと著作権フリー素材を使用しています。